2016年7月15日金曜日

大きく羽ばたけ、
 好漢 鳥越俊太郎!

  畏友 鳥越俊太郎に
 心からの喝采を送る
      

岩本智之
  元京大原子炉実験所教員
  大阪革新懇世話人
  彼の生年は私と同じ1940年、しかし早生まれなので向こうが1年上級。鳥越は文学部、私は理学部に進んだが、いずれもが京大合唱団に入った。鳥越はパートはバス、彼のソロは何とも艶っぽかった。私はトップテナー。練習でも本番舞台でも真っ正面に向かい合った。鳥越は「渉外」の役を引き受け、演奏旅行や他大学の合唱団とのジョイントコンサートをコーディネートしてきた。私は混声合唱の副指揮者をさせていただいた。因みに、この合唱団の創設者が日野原重明氏であることは後年聞いた。当時から、混声合唱をするため、女声は学外から募られた。鳥越の両親はここで団内結婚の第1号だったそうだ。頃はちょうど60年安保の真っ只中、団内でも安保条約そのものはもちろん、人間いかに生きるべきか、社会の変革の方向は何か、すさまじいばかりの議論の毎日だった。当然、自分たちの音楽活動の果たすべき役割も重要課題だった。   
   
こんな熱い論議の中で、次第に私は鳥越の感化を受けるようになった。鳥越は2歳年下の弟と銀閣寺の隣に下宿していたが、厚かましくもそこが私の巣になっていた。入学年は鳥越の方が早く、しかも私は1回生の夏休みの合宿で発病し、1年落第する羽目となり、学年は2年に開いた。それでも、なぜか卒業は鳥越が後になった。   
  
鳥越は毎日新聞に入社し、私は熊取町の京大原子炉に採用された。ある時期、鳥越は岸和田支局詰めとなった。私はこの頃、日本科学者会議空港問題研究会に入れて戴き、関西空港の泉州沖建設に反対する住民運動に深く関わった。そのため鳥越の取材を受ける立場になったことがある。4度のがん手術を乗り越えた鳥越の大きな足跡については、彼のHPを参照されたい。  
  
その鳥越が、大舞台に立つ。幸い宇都宮健治氏が潔く身をひかれたので、いよいよ決戦の役回りは完璧にそろった。
  
大きく羽ばたけ、好漢鳥越俊太郎!

(大阪革新懇・活動ニュース714日号から転載)

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