2025年8月1日金曜日

東京大空襲とは

 東京大空襲とは何であったか―空襲をとらえ直す


東京大空襲・戦災資料センター館長 

一橋大学名誉教授 

 吉田 裕さん            

 429日、東京大空襲・戦災資料センターで、東京革新懇人間講座第29夜「東京大空襲から80年 実相を知り明日の平和へ」における吉田裕さんの講演要旨を紹介します。

 はじめに

今年は「戦後80年」、1868(明治1)年から1945(昭和20)年の敗戦までは77年、すでに戦前より戦後の方が3年も長い。この長い戦後史の中で、日本人・日本社会は戦争の歴史にどのように向き合ってきたのか、あるいは向き合ってこなかったのか、という問題を深める必要がある。

 空襲の世界史

1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行。飛行機は、植民地抵抗運動の鎮圧に使われた。飛行機の本格的軍事使用は第1次世界大戦からである。

その後、日中戦争・第2次世界大戦などをへて、爆撃機の性能は急速に向上(大型化・高速化・航続距離の増大・爆弾搭載量の増大など)、第2次世界大戦の末期には、アメリカが、高性能の大型爆撃機=B29の開発に成功し、1944年から実戦配備した。

都市に対する最初の無差別爆撃はナチス・ドイツによるゲルニカ爆撃(19374月)。日中戦争が始まると日本が重慶などの中国の都市を無差別爆撃。第2次世界大戦が勃発し、アジアにまで拡大すると、米英はドイツ・日本に対する大規模な無差別爆撃を実施、そのいきつく先が広島・長崎の原爆投下。東京大空襲では約10万人もの死者を出しているが(被害者)、歴史の流れの中に置くと、無差別爆撃の歴史に日本が深く関与、その点では加害者の側にいたことがわかる。なお、戦前も戦後も国際法上は非軍事目標にたいする空爆は違法であった。 

日本本土空襲の概要

ドゥーリットル空襲(1942418日)=アメリカの空母から発進した16機のB25が東京・名古屋・神戸などを空襲。損害は比較的軽微だったが、この空襲の結果、海軍は哨戒線を東に拡張するためにミッドウェー島攻略戦を決断。しかし6月のミッドウェー海戦で大敗北を喫している。

中国の成都を基地にしたB29による北九州爆撃=19446月、翌年初めまで続く。194478月にマリアナ諸島が陥落。1124日にマリアナ基地のB29が東京を初空襲、本土空襲が本格化する。

マリアナを基地とした本土空襲は3つの時期に区分できる。第1期=19441124日から194534日までの時期。まがりなりにも軍事目標主義を掲げていたアメリカが、航空機工場などの軍需工場に対して高高度からの「精密爆撃」を行った時期。

しかし精度の低さ、日本上空の強いジエット気流、厚い雲におおわれ視界不良となる冬の天候(レーダーでの照準もうまくいかない)、B29に多発する故障などの影響で十分な成果をあげられず、米軍は方針を転換する。

2期=1945310日から615日までの時期。310日の東京大空襲のように、都市部に対する低高度からの夜間無差別絨毯爆撃を実施。大阪・神戸・名古屋・横浜などの大都市に無差別爆撃。

3期=617日以降敗戦までの時期。地方の中小都市にまで無差別爆撃を拡大、全国の都市が焼き払われる。沖縄を占領した米軍は、沖縄の基地から爆撃機の他、小型の攻撃機や戦闘機による空襲を開始。日本近海の英米機動部隊からも多数の艦載機が空襲。戦争末期には戦闘機が低空からあらゆる目標に無差別に銃撃を加える。また1945326日に硫黄島が陥落し、同島はB29の緊急着陸地、護衛戦闘機の発進基地、本土空襲のための中継基地として大きな役割を果たす。日本側の防空体制・部隊は弱体で空襲をほとんど阻止できなかった。

マイノリティーと空襲、そして被害と加害の関係性

貧しい人々が下町のスラム街に密集し、在日朝鮮人が住み犠牲者も多かったと思われる。大阪でも最近ようやく、塚﨑昌之編著『大阪空襲と朝鮮人そして強制連行』(ハンマウム出版、2022年)が刊行されている。

東京大空襲・戦災資料センターの場合でも、2002年の開館当時は、東京大空襲の朝鮮人犠牲者に関する展示はなかった。20033月に来館した金栄春さんが朝鮮人関係の展示がないことを批判。20063月の「東京大空襲61周年朝鮮人犠牲者シンポジウム」に早乙女勝元館長が出席、感想文に「朝鮮人問題をもう少し調べるべきだった。センターを拡張しています。再オープンの時は朝鮮人コーナーを設けます」と記している。2007年リニューアル時に朝鮮人犠牲者関係の展示ができ、2020年にはさらに整備された。

近年、空襲などで両親を失った戦災孤児の研究が進んでいる。本センターでも、2020年の展示リニューアルで新たに戦災孤児のコーナーを設けた(背景に孤児となった人たちの強い要望が)。

「東京空襲を記録する会」での運動は、幅広い人々の協力を得るため、まず何よりも体験の記録化に力を注ぐ。戦争責任や加害の問題は、自覚されてはいたが先送りされた。早乙女勝元の発言=「東京の会は、体験者の義務として出発した。記録のないものは伝承もできないからだ。そのため、参加者の立場、意見は異なっていても、事実の確定から始めた。意味を討論していては一致できないからだ」。

21世紀に入ってから、加害の問題ははっきりと自覚されるようになる。センターは2007年にシンポジウム「無差別爆撃の源流―ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」を、2008年にはシンポジウム「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか」を開催。この頃から東京大空襲とゲルニカ爆撃・重慶爆撃との関係を強く意識し始める。

2008年に大阪空襲の被害者などが国に補償を求めて大阪地裁に提訴。原告の安野輝子さんは2010年に重慶を訪問して重慶爆撃の被害者と交流、「つい最近まで皆さんたちのことは頭にありませんでした。ここに来て、加害国の一人として自分の国が犯した空襲に向き合うことが大事だと思い知りました」と発言(矢野宏『空襲被害はなぜ国の責任か』(せせらぎ出版)。

センターの展示面では、2020年のリニューアルで、ゲルニカに始まる戦略爆撃・無差別爆撃の歴史の中に東京大空襲を位置付ける(日本も重慶爆撃に象徴されるように、戦略爆撃の「発展」に深く関与)という姿勢はより明確になった。しかし、まだ日本軍の捕虜となった米軍搭乗員の虐待・殺害の問題は展示が不十分。東京大空襲では14機のB29が墜落しているが、茨城県筑波郡板橋村に墜落した1機の搭乗員3名が捕虜となり、1名が憲兵隊で処刑されている。一般市民による搭乗員の虐待・殺害も頻繁に行われた。NHK「戦争証言」プロジェクト編『証言記録 市民たちの戦争2』(大月書店、2015年)、熊野以素『九州大生体解剖事件』(岩波書店、2015年)。

 朝鮮戦争と日本

朝鮮戦争(19506月~19537月)に日本は直接参戦しなかったが、国連軍(特に米軍)の兵站・補給基地として大きな役割を果たした。

また、最新の研究、林博史『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(高文研、2023年)は、東京(横田)と沖縄(嘉手納)から出撃したB29による北朝鮮に対する無差別爆撃を詳細に解明している。B29が日本本土に投下した爆弾の総量は165000トン、北朝鮮に投下した爆弾総量は167100トン(国連軍全体ではその4倍以上)、東京・ピョンヤン間の距離は約1300キロ、サイパン・東京間は2200キロ、距離が短いほど爆弾の搭載量は増大する 

「戦争被害受忍論」をめぐって

「戦争被害受忍論」=戦時のような非常事態の場合には、すべての国民が犠牲を余儀なくされる。これらの犠牲は国民がひとしく受忍しなければならないものであり、補償の対象とはならないとするもの。この「受忍論」を克服しなければ、自国の政府の責任の追及も曖昧になるし、さらには他国・多民族にたいする戦争責任という観念も生まれない。

秋田魁新報社の最近の調査によれば、アジア・太平洋戦争の開戦(194112月)から敗戦(19458月)までの秋田県出身兵士の戦死者数は27036人、このうちサイパン島が陥落した19447月から敗戦までの戦死者数は2575人、全戦死者の実に76.1%が最後の約1年間に戦死している。また、政府は外地及び内地で死亡した民間人の死没者数を約80万人としている。この80万人は満洲などからの引揚の際の犠牲者、空襲や原爆の犠牲者、沖縄戦の犠牲者だと考えられるので、その大部分は東京大空襲をかわきりにして都市無差別爆撃が本格化する19453月以降の死者、つまり最後の半年間の死者。日本政府は無謀な侵略戦争を開始した責任だけでなく、戦争終結決意の遅延によって、無益な大量死を生み出した責任を有している。

国の側に「受忍論」が明確な形で形成されるのは、高度成長期、戦争で財産を失った日本人移民が政府に補償を求めた裁判の最高裁判決(196811月)=「戦争被害受忍論」に基づき原告敗訴を言い渡す。「戦後補償史における、黒い画期」(栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』岩波新書、2022年)。波多野澄雄は、「『国民総犠牲者』の考え方に立つ『受忍論』は、国の内側から起こる戦争責任論や補償要求の噴出を抑える仕組みでもあった」と指摘している(東郷和彦・波多野澄雄編『歴史問題ハンドブック』岩波書店、2015年)。

 問題は「受忍論」を消極的な形であれ、「戦争だから」と受け入れるような国民意識が存在することだ。

1964年、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ大将が、航空自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章を授章。この時のマスコミの反応=あまり大きく取り上げず、取り上げる場合でも原爆を投下した司令官(これは正確ではない)への叙勲を問題にし、本土空襲の司令官への叙勲を問題にしていない(上岡伸雄『東京大空襲を指揮した男 カーチス・ルメイ』ハヤカワ新書、2025年)。

教科書に東京大空襲が登場するのも1980年代に入ってからだった。

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