対話が日本を変える!
5月16日に全労連会館で開催しました東京革新懇人間講座第30夜「対話が日本を変える!」における哲学者・永井玲衣さんの講演要旨をご紹介します。会場には104人が参加し、講演は大変好評でした。「対話」の重要性が強調される昨今、対話のもつ社会との関わり、奥深さなど考えさせられる内容でした。なお、講演タイトルは事務局がつけたものです。
長らく活動を続けていらっしゃっている皆様に向けて、恐縮ながら考える場を持ちたいなと思ってまいりました。
私は全国いろんな場所を巡り人々と聞き合い、考え合う対話の場を作る活動をしております。北海道から沖縄まで、学校や企業もありますが、シェルター、病院、被災地、困窮地域と呼ばれる場所、路上、電車の中、美術館などで行っています。
問いを大切に
私が試みる対話の場は輪になって聞き合うということが多いです。
これは古着屋さんで、初めて出会う人と輪になって、「人を信じるとはそもそもどういうことか」という問いに集まって考えています。とてもゆっくりした時間がながれています。
福島県の原発事故避難区域に通っています。浪江町の中学校で、持続的に外部講師として関わり哲学の授業を開いています。私は問いを立てることを大切にし、「自分の町という言葉の前に立った時に、あなたはどんな問いが浮かびますか?」から始めています。問いを一緒に聞き合うことを大切にしています。
生徒さんが「この町が好きなんだけれどもこの町を出たいと思うのは何でだろう?」って問うた。モヤモヤに立ち返った時のつぶやきのようなものを置いてくれた。
問いというのは人々を対等にする。私はこの地域に住んではいませが、その問いには参加できる。その子の固有の問いながら、同時に普遍性を持つ問いです。そうしたことを聞き合っていくということ、これが対話だと思います。
対話は、コミュニケーションの一つではなく、もっと根本的なものとして捉えたいと思っています。
修復としての対話
相模原障害者殺傷事件がありました。私は北九州市にあるホームレス支援をしているNPO法人「抱樸」といろんな場を作りますが、理事長の奥田知志さんが、相模原殺傷事件の犯行に及んだ植松氏と面会をした時、植松氏は「役に立たない人間は殺すしかない」と繰り返したそうです。奥田さんが「あなたは役に立つ人間だったんですか?」と問うた。植松氏は逡巡しながら「僕はあまり役に立たない人間だった」と答えた。優生思想が内面化され、それに囚われている人は自分も攻撃しています。
ビジネスの現場では「生産性が上がる対話」とか「新しいコミュニケーションの方法」と言われ、消費される。なんで今対話が必要なのかと言ったら、私は修復という言葉で捉えています。
日本社会では共に考えるということに慣れていないと言われます。事態は深刻で、もっと傷ついているのではないかと考えています。ですから、修復という視点が必要なのです。現場を重ね教えてもらったことですが、声を聞かれるということはその人の尊厳に関わることだということです。対話は傷ついた社会や個人の修復の試みでなければならないと思います。何よりもまず目の前の人の声を本人が終わりですと言うまで聞くことです。
対話は聞き合うこと
私はこの場が対話的であるためにということで三つの約束をします。
一つ目はよく聞き合うことです。私は対話は、聞き合うことと言い換えています。私が大切にしているのは、沈黙に耳を澄ませるということです。
対話の場では、鳥のぬいぐるみを持って行き、ぬいぐるみを持っている人が話す、それ以外の人は聞くという約束をお願いしています。鳥を持っている間はその方の時間なので、「そうですね。うーん、わからないですけど」みたいに話しされる方が多いですが、その数十秒、数分の沈黙にその人の言葉・表現があります。そこにも一緒にいようとすることを大切にします。その一時間、二時間は、そういう時間を過ごすことをみんなで決めています。対話の場は本当にゆっくり進みます。沈黙もたくさん訪れます。でもそれが大事だと思います。
非人間化に抗う対話
私が対話の場でおーと思うのは、企業で対話の時間を終わると、ある社員さんが「部長って人間だったんだ」と言った。怖い顔していた部長がいきなり「俺死ぬの怖くて」「俺子どもの頃こんなこと考えてて、どうして忘れてたんだろう」とか。部長はみんなにとって人間ではなかったということです。私たちの社会は様々な非人間化を生きていると言えます。
虐殺や戦争の現場では、動物、ゴキブリであるとのまなざしで害を与えるということがあります。人間が人間を殺すことはとても難しいと言われます。軍隊で最初に習うのは相手を非人間化する方法と言われます。この非人間化ことのために、テクノロジーも発展し、銃であったり戦闘機であったりする。戦場を体験した兵士たちのPTSD、陸軍の発症率より空軍の発症率の方が低い。空軍は空高く飛び上がって爆弾を落とすから発症率が低いと。無人型ドローンが開発され、殺すことを楽にするためにテクノロジーが使われています。自分を非人間化し兵士になる、あるいは労働の現場でそういうことが起きています。
対話でその人の声を聞こうとすると相手が人間になってしまいます。対話とは非人間化に抵抗するい、あるいはそういうものを自然に作り出すと思っています。
対話は自分の言葉で
二つ目の約束に「私をぜひ主語にしてください」と言っています。「私は」との主語で話そうとすると、途端に人は話すのが拙くなります。私はその拙さを心から愛しています。「目の前の人に伝えよう」という時、ぽつりぽつりと人は語ります。
例えば、「しんどいよ」との思いを持った人たちの集まりで、「みんなどうやって生きているんですか?普通に就職したり、恋愛、結婚したり。どうやって?自分は流れる川の真ん中に突き刺さっている棒杭。みんながステージを変えていくのをただぼーっと見ている。ずっと、ずっと」と。彼はこの言葉、5分ぐらいかけてゆっくり話した。でもなんか言葉が光っているなと思う。特に「自分は流れる川の真ん中に突き刺さっている棒杭」、本当に詩のような言葉だなと思います。
主体というのは意見や主張を持ち理性的で自立的だと考えられてきました。でも対話の場の人間というのは、場に揺さぶられ、変容し続けます。考えも変わります。言葉が変わったり、見え方が変わったりする。でも傷つけることに抗いながら、なんとか一緒にいようとするという対話はとても難しいし面倒くさそうです。
そこで私は哲学対話という手立て
に希望を持っています。全国革新懇ニュースで取材していただいた時にもお話しましたが、「わからなさ、問いが真ん中にあると一緒にいられるかもしれない」ということです。大事だと思うのは「聞いてあげる」ではなくて「一緒に考える」という場です。
例えば地域のおばあちゃんが「雑草が抜いても抜いても生えてきて」って、急に止まって「でもなんで私雑草抜いてるんだろう」と言った。面白い問いだねってみんなで考え合った。誰かが「それは綺麗にしたいからでしょ?」とか終わらそうとするわけです。またおばあちゃんが「なんで綺麗にしたいの?」。「別に抜く必要のない雑草も抜いているよね」みたいな話になって、問いは「なぜ私たちは異物だと思うものを簡単に排除しようとしてしまうのか」という問いに育っていきました。
これも最近高校生が教えてくれました。「先生たち、大人が、そんなんじゃダメだぞ。社会は厳しいぞ。社会で通用しないぞって言われるんです。でも大人の言う社会って会社のことなんじゃないんですか?」「私が今いる学校って社会じゃないのかな?」って。「社会ってどこにあるんですか?」との問いを教えてくれました。何人かそこに大人いましたけど、大人ガーンってなってました。
私は年間三百回ぐらい、十数年続け、一年に六千ぐらいの問いに出会い、何万という問いに出会ってきましたが一つとして似た問いはない。
誰もが問いをもち、どの問いも個性を持ち、どんな現場も問いが出ないことはありません。哲学対話したくて集まる現場の方が少なく、対話をするつもりじゃなかった人とやる現場が7割ぐらい。
社会問題の問い
社会問題と「問い」はあんまり結びついてない。社会問題に対して、わからなさを問いとして出会うことができるんじゃないかと思う。「選挙」「原発」「憲法」などテーマをもってやるときがあります。「選挙という言葉の前に立った時にどんな問いがありますか?」と聞いたことがあります。大学生が「投票にすっぴんで行っていいのかな?」と言った。なんでそれが気になるのと言ったら、「投票ってちゃんとしなきゃいけないことな気がしてて、ちゃんとするためにお化粧しないといけないと思った」と言った。これはすごく大事な問いだと私は思ったわけです。大変社会的な問いです。こんなつぶやきのようなものから問いって育っていく。さっきの雑草の問いもそうです。そうすると、みんなで聞き合って、互いが人間だなと思い合いながら考えが進んでいくということがあります。
社会問題の問いというのはこうすべきではないかという問いが多いと思いますが、「そもそもどういうこと」というところから始める場ももっとあってもいいと思っています。
核兵器を持てば強い国と言うけど、そもそも強い国って何だろう?核兵器持つべきだという人も、廃絶すべきだという人も一緒に考えられる問いです。「そういうものだよね。戦争はなくならないよね」に対して、問うことは抗うことだと思います。一人で抗うのではなくて、問いがいいのは他者を求めることです。「わかんないから一緒に考えてほしいです」と問いそれ自体は他者を求めるのだと思っています。人つなげるものだという希望を持っています。
脱暴力としての対話
「修復という対話に興味がある」と同時に私は脱暴力としての対話にとても関心があります。反暴力、非暴力ではなく、脱暴力とあえて言っています。反暴力、非暴力は、暴力と私が向かい合って格闘している感じがしますが、脱暴力という言葉は、私も当事者な感じがすると思います。
私たちは暴力というものをもちろん受けもするし、与えもしてしまう。暴力というものに関わっているからこそ、みんなでそれを防ごうとする言葉になるなと思い脱暴力と言っています。
対話というのは緊張を作り出します。キング牧師は「実に対話こそが直接行動の目的です。非暴力直接行動の狙いは、対話を絶えず拒んできた地域社会に、争点と対決せざるを得ないような危機感と緊張を作り出そうとするものです」と語っています。対話が暴力ではない仕方で緊張を作り出す。それこそ皆さんがずっとされてきたことじゃないかなと思ったりもします。
対話というのは共に生きるということがとても関わるものだと思います。暉峻淑子さん、対話の場をたくさん作られてきた方のとても素敵な言葉「バス停の数ほど対話の場を」を紹介して話しを終わります。
皆様のご活動に励まされながら、また皆様と一緒に対話の場をたくさん作っていくということができたらいいなと思っています。
【文責:事務局】

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