東友会 家島さん インタビュー
バトンをつなぎ核廃絶へ
東京都原爆被爆者協議会(東友会)代表理事の家島昌志さんにインタビューを行いました。家島さんは、日本被団協の代表理事でもあります。(今井)
被爆の時の状況
私は当時3歳1ヶ月。広島駅の北側、爆心地から1.8キロの農村地帯の家にいた。玄関で遊んでいて吹き飛ばされたが無傷。家中のガラスが吹き飛び、母親は全身ハリネズミ、近所の看護婦さんのところに駆け込み、抜いてもらい命拾いした。屋根はめくれ月が見えた。上の姉二人は鳥取県に疎開、10ヶ月の妹はたまたま蒲団袋の裏に寝かされていて無事だった。父親は、爆心地から1.4キロにある逓信局で、敵襲警戒の夜警当番を終え家に帰って仮眠中で命拾い。親戚の娘さん夫婦が前の晩から家に泊まり、翌6日の朝、夫が新兵として入営する予定で朝早く爆心から7~800メートルの西練兵場に出かけた。父親が駆けつけたが、兵士は皆焼け死んでいて見分けがつかない。諦めて帰る途中、娘さんが大やけどで道路端にころがっているのを発見、大八車を借りて連れ帰った。
広島は70年間草木も生えないとの噂が広がり、食料がない。兎に角田舎に帰ろうと鳥取県に引き上げた。
父親は1年後に転勤が認められ米子に帰ってきたが、18年後に胃を全摘。それから24年後に上顎ガンで手術、5ヶ月後に亡くなった。助けた親戚の女性も甲状腺ガンで亡くなった。母親は93歳まで生きたが、被爆のことは一切話さなかった。
被爆者運動とのかかわり
私は、郵便局から郵政局、本省勤務となり、本省では終電で帰るようなことが多く、運動とのかかわりは退職してからだ。中野区原爆被爆者の会に顔を出したら、役員をやることになり、やがて会長に。東友会では2019年から代表理事を担っている。
中学生・高校生の多感な時期に原爆の悲惨さを体験した人たちが、証言活動を続けリードしてきたが、高齢となり多くの方が亡くなった。いま、東友会の役員は、2歳被爆、3歳被爆、胎内被曝とか、自分での記憶がほとんどない人が担っている。
しかし、核廃絶の努力は続けなければいけない。原爆死した人の補償、被爆者の救済、黒い雨訴訟、長崎の西山地域や天草半島など強く汚染された地域の救済を求める訴訟など今も続いている。
核兵器の危機
ヒロシマの原爆は、ウラン60キロ詰めたが核爆発したのは7グラムと言われる。今の核兵器は進化し威力は増している。1メガトンの核爆発で東京23区は全滅、ビキニ級の15メガトンの爆発では静岡から宮城まで全滅するといわれる。現在、世界では合計4000発の核兵器がすぐに発射できる体制にある。
過去、キューバ危機でのソ連の潜水艦での核攻撃命令。沖縄で誤って核ミサイルが発射された事件。ロシア・エリツィン大統領が核攻撃と誤認して核ボタンを押したがシステム不具合で事なきを得た事件など起こっている。核廃絶以外に安全はない。
ノーベル平和賞を受賞
今回ノーベル平和賞を受賞したことは、先輩達の活動が我々の時代になって報われたということだ。授賞式に臨んだときも、亡くなった人達100人位の連続写真の遺影を掲げてオスロでたいまつ行進をおこなった。
ノーベル委員会のフリードネス委員長は、被爆者が自らの身を曝して訴えてきたことが核のタブー(核は使ってはならない)の確立に力を貸したとスピーチされた。
この間の取り組み
日本の世論を盛り上げようと、日本被団協、日本生協連、日本青年団協議会などがプロジェクトを組み、10月11日に有楽町朝日ホールで反核集会を開催する。
東友会は東京都生協連合会と共同し、2021年に国連で原爆展をおこなったときのパネル48枚を展示した原爆展を、東京都・広島市・長崎市の後援を得て8/15~8/24に行った。また両者の共同で、10月5~7日に広島平和ツアー、11月9~11日に長崎平和ツアーを40人規模行う。広島・長崎市長とも会う予定。
運動のバトンをつなぐ
核不拡散条約では5つの核保有国が音頭をとる形だが、ロシア、アメリカ主体の指導者たちには核廃絶の機運が全く見えない中で、フリードネス委員長は、世論を盛り上げていくのは世界市民の義務だとアピール。被爆者の運動はいずれ終焉を迎えるが、被爆2世、3世が運動を広げてほしいし、世界の青年たち、市民がこの運動を盛り上げて核廃絶を成し遂げてほしい。
ノーベル平和賞を受賞して、渡航費をクラウドファンディングで呼びかけたところ、その日だけで1000万円集まった。日本国民の関心も高い。一方、各県の被爆者の運動の困難も広がっている。若い人達が運動を継続してくれることが命の綱だ。