ジェンダー平等は個人の尊厳に向かう
全国革新懇交流会(10月19日神戸)での岡野八代さんの発言を紹介します。
わたしの発言の骨子は、二つ。まずなによりも、ジェンダーとはなにか、ジェンダーに敏感になるとはどういうことか、ということ。第二に、ジェンダーに敏感になり、ジェンダー平等を目指す社会は、なぜ安倍政権を断固拒否しなければならないのか、についてです。
個々人に強制する政治的性差
個々人に強制する政治的性差
ジェンダーとは、社会的文化的性差と一般的には定義されていますが、わたしは、現在の政治状況のなかで、ジェンダーとは、個々人に強い力で強制される政治的性差だと考えるべきだと思うようになりました。日本における歴史問題、表現の自由をめぐる無理解が露呈した、あいちトリエンナーレでおこったことから、考えてみましょう。
なぜ、名古屋市長や大阪市長は、あの小さな平和を願う「少女像」に、目くじらをたてて、日本人としての誇りが傷つけられたと、権力者であるにもかかわらず、表現の自由を抑圧するという暴挙にでたのでしょうか?
わたしは日本軍「慰安婦」問題について、政治思想史とフェミニズム理論を研究する者として、1990年代から研究を続けてきました。「慰安婦」問題の核心的問題とは、「産めよ殖えよ」といった標語にも明らかなように、憲法によってしっかりと個人の尊厳、基本的人権を保障しない国家においては、国民は、国家の道具として、つまり労働力として、ただ利用され、搾取されるという問題でした。日本軍慰安所、そこに軍の要請にしたがって送られた慰安婦は、天皇のために命を捨てることを強要された兵士を「慰安」する物資、もっとも安上がりな物資として戦地に送られたモノでした。もちろん、多くの兵士たちも将校たちに兵器以下、漫画家水木しげるの言葉を借りれば、馬以下の扱いをされていました。慰安婦とは、馬以下の、まさに捨て石のような兵士が、軍隊内で唯一踏みつけにしてもよい、性のはけ口とされたのでした。
人間世界のなかでの最大の暴力装置でもある国家は、人間を二つに分け、男性には、「男らしさ」という勲章を与えることで、おだてながら、その力を搾取し、女性には「女らしさ」という美徳を与えつつも、さらに、搾取され続ける男性に、あたかも自分は特権をもっているのだと勘違いさせるために、支配される性としての役割を女性に果たさせようとします。戦場という、あからさまに国民が使い捨てられる場で、もっとも露骨に戦争遂行の手段一つとされたのが、元「慰安婦」の方々でした。
平和を願う少女像を忌み嫌う人びとは、少女像が語ろうとするかつての日本軍の行いによって明らかになる、この国の真の姿を隠したいのです。なぜ反省をするのではなく、隠そうとするのでしょうか。かれらは、あまりに露骨な人間軽視の国家の姿が批判されると、自分たちが望む国家の実現を妨げられると考えているとしか思えません。つまり、慰安婦問題を否定する政治家たちは、「慰安所」制度ほど露骨ではないにせよ、市民を搾取し、自分たちの野望のために馬以下のように使える、国民を望んでいるに違いありません。
ジェンダー平等は安倍政権を拒否する
現在の日本社会は、「女らしさ」や「男らしさ」といった、わたしたちの身体や心までも規定するジェンダー規範に強く縛られたままです。「男らしさ」や「女らしさ」といった規範は、わたしたちの言葉遣い、身のこなし方まで規定する力をもっています。それだけでなく、じっさいには、国家を根底から支える一つの秩序です。例えば、国の労働力をどう編成するか、また、現在の労働力ではない未来の世代や、生産年齢を超えた人たちをどのようにして、育てたり、支えたりするのかといった、労働、人口、福祉・社会政策に密接に関わっています。
安倍政権下では、女性活躍といいながら、女性の多くは正規労働から排除され、家事責任の大半を担わされ、男性世帯主がいない女性親ひとり世帯では、母親はいうまでもなく、多くの子どもたちが貧困にあえいでいます。このしくみが、いかに政治的な労働政策や社会保障制度のなかで作り出されてきたかを見えなくしているものこそが、ジェンダー秩序に他なりません。制度や税制、社会保障によってかなり左右される男女別のライフスタイルが、いかに個人の自由なライフスタイルを歪めているか。ああ、それは女性だしねと、わたしたちに深く考えさせなくしているものこそが、ジェンダーに他なりません。
ここまで説明しますと、ジェンダー、あるいは「ジェンダー秩序」に敏感になることが、なぜ安倍政権を倒すことになるのか、ジェンダーに敏感な社会づくりをしようとするならば、安倍政権は倒さないといけないのか、ということもお分かりになると思います。
戦争ができる国、それは、すでに申しましたように、市民を道具にできる国ですが、そうした国づくりをしようとしているのが、安倍政権です。かれらが立憲主義が許せないのは、国家はひとのためにあると主張するからです。国家は、ひとがもつ、だれも予想できないような可能性、これまで世界に存在しなかったような思想や表現や発明を生み出す可能性をもった、自由なひとを育むためにこそ、存在しています。かれらは、こうした現行憲法がよって立つ個人の尊厳をどうしても認めることができません。そうした権力者たちは、戦後の改憲論議を振り返りますと、過去においても現在も24条を認めることもできません。家族という共同体が、かれらがもっとも忌み嫌う個人の尊厳に立脚して、営まれることに我慢がならないからでしょう。ご存じのように、「個人の尊厳」が文字通り書き込まれているのは、24条に他ならないのです。
国家は家族を怖れている
わたしたち人間は、無力なまま生まれてくるかぎり、必ず、どのような形であれ、生活能力をもった人に養われ、育てられなければなりません。わたしたちのアイデンティティに、もっとも強い影響力をもつ家族が、「個人の尊厳」を大切にし、その子の未来を、現在の国境や習慣に縛られることなく、可能性に開かれたものとして尊重する共同体になれば、おそらく、国が国民を道具にしようとしても、そこに抵抗する力が生まれてくるでしょう。わたしは、現在、家族がなぜここまで、政治に利用されてきたのかを研究してもいますが、それは、まさに、国家は家族を怖れているからだと思っています。家族という共同体には、もちろん潜在的にではありますが、国家に抵抗する人間を育てる力が備わっています。したがって逆に、国家はつねに、家族を監視し、管理し、他の家族と同じでないと、社会的なプレッシャーを与えるなどして、なるべく国の言いなりになる人づくりに利用できるようにしておきたいのでしょう。
「ジェンダー平等」を実現する、個人の尊厳を守るためには、わたしたちのアイデンティティに奥深く根付いているジェンダー秩序を、少しずつでもほどいていかなければなりません。現在のわたしたちが生きるジェンダー秩序は、国家中心の、個人の自由を根絶やしにしかねないものだとわたしは考えています。
この歪んだジェンダー秩序は、女性だけが苦しめられているわけではありません。過酷な労働を押し付けられ苦しんでいる、あるいは、強い男らしさ規範に批判的な、男性たちの生きづらさをも作り出しています。
安倍政権の立憲主義への敵意は、個人の尊厳、自由、なにより、他人に強制されずに幸福を追求する権利に向けられています。ジェンダーの視点から、このような敵意は、可能性に開かれた、わたしたちひとり一人の自由な想像力と未来を殺すのだと訴えたいのです。
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